ついつい見過ごしがちなほどの、小さな小さな親切をする人のことを「プチ紳士」「プチ淑女」といいます。たとえば、自動車を運転している時。工事中で二車線から一車線になるポイントで、目で「お先にどうぞ」と合図して、割り込ませてくれる人。はたまた、買物の時にレジで、お店の人が、お客さんの並んでいる順番を間違えると、「私よりこちらの方が先ですよ」と言ってくれる人、などなど。気をつけて生活していると、案外身の周りにも「プチ紳士」はいっぱいいることに気づきます。

何年も前、京都を旅した時のことです。四条通りの雑踏の中で立ち尽くす、一人の女性を見かけました。人の波に肩を小突かれて、よろけました。よく見ると、白い杖を手にしています。慌てて駆け寄り、「お手伝いできますか」と声をかけました。弱りました。「○○行きのバスに乗りたいのですが」と言われましたが、バス停がわかりません。仕方なく、道行く人に訊ねて100メートルほど先のバス停までお連れしました。

私の向かう方向とは反対だったので、ここで別れることにしました。「ありがとうございます」とお礼を言われましたが、この先がちょっと心配です。そこで、バスを待つ列の前の若い女性に声をかけました。「この方を降りる場所までヘルプしていただけませんか」と。

ところが、です。振り返ったその女性は何も応えず、一歩後ずさりして何もなかったかのように身体を正面に戻しました。「わかりました。ここまでご苦労様」などという答えを期待していた私は、言葉を失ってしまいました。

そうこうするうち、バスがやってきて、みんな乗り込みました。白い杖の女性も。無事に目的地に着くことを心から祈りました。

このあと、ずっと後悔しました。私もあの若い女性を責められないなと。なぜ、彼女が知らん振りをしたか理由はわかりません。ただ、私は急ぎの仕事があるわけでもなく、旅の予定を変更すればよいだけのことだったのです。でも、再び考えました。たとえ目的地まで案内できたとしても、帰りはどうするのか。明日は、明後日は。そうなるとキリがありません。どこまでが、必要な善意なのでしょう。

さて、最近のことです。名古屋の地下鉄のいつもの駅の階段で、白い杖の男性をヘルプしました。ところが、行き先を聞いて「困ったな」と思いました。私の方角とは反対なのです。急ぐ用もありました。途中の乗り換え駅までしか同行できないことを詫びました。「それでも充分です」とおっしゃってくださり、少しホッとしました。

さて、乗り換えの電車の中へと誘導し、手摺りのポールに掴まってもらいます。「お気をつけて」と声をかけた瞬間のことでした。少し離れた席に座っていた若い女性が、ダッダッダッと勢いよくこちらへ突進してきました。そして、「どうぞ、こちらへ」と白い杖の人の腕を引いたのです。

(プシュー)ちょうどそこで、ドアが閉まりました。ふと、小学校の時の、学級対抗リレーを思い出しました。バトンが気持ちよく手渡された瞬間ほど、心地良いものはありません。そのために、運動会の前には、放課後のグランドでバトンの練習をしたものです。

走り出す電車の車窓に、お二人の笑顔が見えました。一度も練習はしないけれど、知らない人にバトンが渡りました。胸が熱くなりました。その次も、またその次も、「プチ紳士」のリレーが続くといいなぁ、と心の中で祈りました。

そんな「プチ紳士」が増えたら、身障者もお年よりも、そして誰もが住みやすい世の中になることでしょう。

志賀内泰弘さんが進める「プチ紳士を探せ!運動」

志賀内さんからいただいた文章をそのまま掲載します。