NAKAZOUが語る中小の歩み

こんにちは  皆、わしを知ってるかい?わしの名前は中ゾウ。運動場の隅っこに大きな木があるじゃろう、わしはその木の妖精なんじゃ。中島小学校の中で一番古い木なんじゃよ。今日は中島小学校の100歳のお祝いじゃ。おめでとう。これからわしがみんなを昔の中島小学校に案内するよ。

みんなが生まれる ずーっと昔、今から100年も前、明治40年に中島小学校は生まれたんだよ。校舎は木造で一階建て。運動場も今のように広くなかったんだ。周りは全部見渡す限り畑だった。

今みたいに標準服はなく皆お母さんの手作りの着物をきていたんだよ。当時はみんなが学校へかよえた訳ではないんだ。学校から帰ると家の仕事を手伝うのが当たり前の明治、大正の時代だったんだ。
この写真は昔の先生の写真だよ。今の先生たちと比べてどうかな。なにか怖そうな顔の先生ばかりですね。昔は先生の前では直立不動だったんだよ。とても遊んでもらえるような雰囲気ではなかったんだ。

昭和10年の卒業生の記念写真だよ。服装は着物の子が多いけれど洋服の子供もちらほらといる事がわかるよね。

昭和初期の頃の中島小学校の様子を少しのぞいてみよう。校舎は木造。今の南門と光堂川の間は畑だったんだよ。緑に囲まれたとてものどかな景色だったよ。

けれど平和な時は長くはつづかなかったんだ。日本は外国と喧嘩をして戦争が始まったんだ。平和でのどかだった中島小学校も中島国民学校という名前になったんだ。戦争に日本が勝つための訓練や勉強をしたんだ。爆弾をのせた飛行機が飛んできて爆弾を落としていくんだ。賑やかな都会が狙われる事が多かったから命を守るためお父さんやお母さんと離れ、疎開といって避難してくる子供達が中島小学校で一緒に勉強したんだよ。
戦争はもう二度とおこしてはいけない悲しい出来事なんじゃよ。
昭和20年、戦争が終わりやっと中島小学校にも平和な時間がもどってきたんだ。これは昭和21年の卒業生の写真だよ。当時の学級は男組と女組に分けられていたんだ。
けれど戦争が終わったばかりの日本には食料品、日用品のすべてが乏しく貧しい時代を過ごす事になるんだ。学校の教科書は黒い汚い紙で作られていてとても読みずらかったんだ。それでも一生懸命勉強していたよ。そして昭和22年、中島小学校始めての運動会がひらかれたんだ。
昭和28年、給食が始まったんだ

中島小学校の運動場の真ん中に大きな桜の木があって、運動会の帽子とり競技の時にはこの桜の木のまわりを嬉しそうにまわっていたのだ。
次の年には体育館ができたが、この時代体育館は掃除の時と卒業式にしか入れなかったんだ。
昭和31年二階建て校舎がたったんだ。教室が4つしかない小さな校舎だったが、当時では珍しくみんな二階から景色をながめるのが楽しみだったんだ。けど、六年生にならないと二階の教室はつかえなかったんだ。だからみんな早く六年生になりたかったんだよ。クラスの呼び方も今みたいに1組2組じゃなく、西組東組だったんだ。そんな二階建て校舎が昭和34年の伊勢湾台風で傾いてしまったんだ。
昭和36年、今みんなが歌っている校歌ができたんだ。この校歌の歌詞に、「父母がまなんだこの窓に、今日はみんなの歌がある」、とあるように、このように沢山の人たちがこの中島小学校で勉強してきたんだよ。100年も前からね。

次に図書館ができて、小さかった運動場や校舎が大きく広げられ、丈夫な鉄筋校舎に全部かわるまで沢山の人の苦労と何年もの時間がかかったんだ。

昭和54年、屋内運動場ができたんだよ。昭和55年、北舎と本館ができ、今の校舎の配置になったんだよ。

2007年(平成19年)320日火曜日 中島小学校第100回卒業式が行われる

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