浅井北古墳群

  一宮市北部は,尾張平野で最も多く古墳を残している地帯で,浅井北古墳群・浅井南古墳群・
今伊勢古墳群の三つの地域に分けられます。          

   浅井北古墳群は,浅井町の河田・黒岩・大野・尾関の四つの地域に集中しています。すでに破壊
された古墳をふくめて50基あったといわれています。

昭和30年ごろの古墳分布図
地図上の色は古墳を表しています。
:前方後円墳
:円墳
:消失古墳

現在,見学できるものが5基あります。以下のものです。 
古墳名をクリックすると各古墳の写真を見ることができます。

名   称 形  式 現   存  規  模
岩塚古墳 円墳 発掘径推定15m,石室のみ
毛無塚古墳 円墳 直径38m,高さ3.5m
桃塚古墳 円墳 直径15m,高さ1.5m
愛宕塚古墳 前方後円墳 直径6.5m,高さ2.2m
小塞神社古墳 前方後円墳 直径32m,高さ2.5m
  それぞれの古墳は近いので,歩いて5分ぐらいで次の古墳に移動できます。
  1時間か2時間あれば全部見学できます。

浅井北古墳群からの出土品
一宮市博物館でいろいろ見学することができます。

勾玉(まがたま)・金環(きんかん)は,装身具です。
いろいろな土器が出土しています。

江戸時代の古い書物にも浅井北の古墳がかかれています。
小塞神社,人麿塚などの文字が読み取れます。


浅井北古墳群 Q&A

Q:なぜ浅井町に古墳が集中しているのですか?
A:浅井町一帯は,木曽川が形成した犬山扇状地と三角州平野が混じっているところです。
  三角州平野の部分は,砂泥の堆積地形であるので,水稲栽培が行えますが,扇状地部分は,
  砂礫の堆積した地形なので,透水性が高く水稲栽培に不向きな土地です。
  したがって,集落や墳墓の立地に適していたことが考えられます。
  さらに,浅井の地は,木曽川が流れ,物資の輸送の中継的な役目をしていました。
   当時は陸路より水路の方が,物資を運ぶのに適していました。
  こうした物資の輸送に関する権利をしょうあくした浅井の豪族は,
  力をたくわえていったと思われます。  
Q:だれが埋葬されているのですか?
A:埋葬されている人が分かっているのは,全国的にみてもほんの少しです。
 小塞神社古墳に埋葬されているのは,小塞宿祢(すくね)弓張と伝えられています。
  内掃部ノ正外従五位小塞宿祢弓張は,尾張の族で尾関の人でした。
  宮に仕え洛中左京に住み,宝亀(8年)777年弓張(当時小五位上)で宿祢姓を賜りました。
  以前,尾張姓を名乗っていたので,後に(782年),桓武天皇に尾張姓に復帰したいと願い出て許されました。
Q:古墳が壊された理由は何ですか?
A:戦前の開墾や戦後の宅地・工場開発のため壊されたようです。
Q:人麿塚とはなんですか?
A:昭和8年に県道浅井那加線をつくるとき,発掘移転された葉栗臣人麿(はぐりのおみひとまろ)の墓です。
     横穴式の石室に組合せ石棺が見つかっています。また,馬具や土器などが出土しています。
  人麿は,天武天皇に仕えた葉栗郡の国司(こくし)です。
  現在は河田の公民館のとなりに石碑が建っています。
Q:静霊神社(せいれいじんじゃ)とはなんですか?
A:尾関同者一帯の古墳群の霊をまつってある神社です。戦争で食料増産のため
  山林や古墳が開墾されたため,昭和29年に毛無塚の上に神社が建てられました。
  現在は,東尾関の公民館のとなりにあります。